滋賀から奈良に移籍した話〜その1〜
※DMM競輪リニューアル前の記事となります。
画像が欠損しております。
ご覧の方にはご不便をおかけしますが、何卒ご了承ください。
田村風起の古参マニアの皆さんはご存知でしょうが、僕ってデビュー時は滋賀県所属だったんですよ。
滋賀県大津市堅田の漁師町出身。
滋賀県は日本で唯一、内陸県で漁港を持つ県です。
という話は置いておいて…。
そんな滋賀県で競輪選手を志したぼくのホームバンクは大津びわこ競輪場。
2011年に競輪事業が廃止され、2017年にバンクが取り壊されました。
まあ、僕は家族に競輪ファンがいたり、自身が競輪大好きで選手になった! ってタイプじゃないので、物心ついてから客としてびわこ競輪場に行ったことはないんですけどね(笑)。
とはいえ、全くの自転車素人だった僕が、大津びわこ競輪場で初めて競技用自転車に乗り、大津びわこ競輪場に育てられ、大津びわこ競輪場で競輪学校に合格し、一喜一憂した訳です。
滋賀県にはトラック競技をやっている自転車部がないので、競輪学校を志す人って少ないんです。
実際、当時の滋賀の100期代の選手はほとんどが適性試験組(※)でした。
(※編注:養成所への一般入試のうち、技能試験は自転車で一定の実績がある者が対象で、適正試験は他のスポーツ経験者が対象)
そんな中、びわこ競輪場で自転車を学び育った最後の技能試験合格者が僕なんですね〜。
一生懸命もがき苦しんだ地、なにより自分を育ててくれた地に愛着や思い入れが無いわけがありません。
数年間お世話になっただけのぺーぺーですが、自らのホームバンクが取り壊されるってなると、やはり寂しいし悲しかったですよ。
古い端末から写真を引っ張り出してきました。
冬のびわこ競輪場の写真。
滋賀って地味に雪降る土地なので、毎年こんな感じで雪に覆われ、必死にバンクの雪かきをしてから練習したものです。
我がホームバンク…なつかしい…。
感傷に浸っとる場合ちゃうで!
もっと未来志向の話をしようや!
とか言うて…実際んとこ、いざホーム競輪場が取り壊される! って話になった時、ひじょーーーーに困ったのが練習環境の激変です。
元々自転車を嗜んでいない僕は、競輪学校を出てからも「力こそパワー!」みたいな脳筋走りを繰り返し、雑な走りからか先行屋なのに落車が多いという有様。
チャレンジこそ特進できたものの、A級に上がってからは相当苦戦していました。
で、びわこ競輪場で先輩方に「バンクの使い方」を教わるため毎日バンクに通っていたのです。
そんな人間が競輪場を失うとどうなると思う?
どうしようもねえ!
しばらくはこんな田舎の登り坂でもがき練習をやってました。
地面って平面じゃん! バンクってすげえ傾いてんだよ? 知ってた!?
33バンクを走る時なんか、内外線を走るので必死ですよ。
当然、競輪学校を卒業している時点で、レースをまともに走る程度のスキルはあるけどね。
それでも、遠心力をいなして、バンクの上り下りの傾斜を上手く使うスキルってのは競輪においては非常にアドバンテージです。
簡単に言えば4コーナーのカマシとか2コーナーで捲りを打てば下り坂だから伸びるけど、1コーナーや3コーナーで仕掛けても上り坂だから相手に牽制されて終わる、みたいな話ね。
文字で書くと簡単な話なんだけど、敵もそこで仕掛けるとわかってるし、そこで動けないように波を作られるのでいざ走ると簡単じゃないんです。
ま、街道練習オンリーで強い選手がいっぱいいるので言い訳にはならないんだけどね〜!
ぼくは自転車を扱うのが下手くそだったので、ほんと死活問題でした。
競輪場取り壊しがはじまってから、丸半年くらい街道練習オンリーで頑張ってみたのですが、レースを走ってもほんとダメ…。
せっかくチャレンジを特進してA級に上がったのに、すぐにチャレンジ落ちが見えるレベル…。
「やっぱ競輪場で練習できる環境が必要だなぁ…」
そう思いつつあった僕は、移籍という選択肢を意識し始めるのであった…。
さあ、タイトルに『〜その1〜』とネタバレした通り、続きは次回に持ち越そうかと思います。
自分語りは意図して区切らないと、無限に筆が進みすぎて圧倒的に長い記事が爆誕してしまいますからね!
ただでさえいつも長文だしな!
という訳で次回、『滋賀から奈良に移籍した話〜その2〜』。
なにも捻らないタイトルだァ!! よろしくね!
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1995年3月30日生まれ。滋賀県出身。 日本競輪選手会 奈良支部所属107期の競輪選手。現在はA級2班。同期には新山響平、山岸佳太、簗田一輝など。 ……以上はすべて仮初めの姿であり、本業は某アイドルのプロデューサーであるともっぱらの噂。 ドール、カメラ、声優など、さまざまな「沼」に足を踏み入れている。